手紙(ほとんど、ひとりごとです)
手紙が届きました。
いま継続的に手紙のやりとりをしている子がいます。
メールなどでやりとりをしている子と比べて、
手紙でやりとりをしている子は、非常に少ないです。
少ないというか、
年賀状や暑中見舞いを除けば、現在やりとりを継続しているのは、2人だけです、正直なところ。
1人は中学生、もう1人は高校生。
こういっては本人たちに失礼ですが、
たあいもない内容が多いです。
だけど、一生懸命に並んでいる文字たちが、とても微笑ましいのです。
時には、悩みが書いてあったりもします。
悩みというか、グチというか。
そんなときは、文字を見ながら、「いまは我慢の時だよ」なんて思ったりします。
ボクの返事は、たいてい絵葉書です。
どんな絵柄が喜ばれるのか、よくわからないままに、自分なりに選んで、返事を書きます。
ボクは、大したことは書かないです。
ボクこそ、たあいもないことしか書いていないかもしれません。
それでも、また手紙が届きます。
そして、やりとりが続いているわけです。
こんなやりとりができる時点で、
別に不登校と言われようがなんだろうが、この子たちは大丈夫だと思うのです。
ずっと継続して、手紙を書くことができるなんて、素晴らしいです。
大人だって面倒ですよね、
便せんに、手書きで、そして封筒を買って、切手を貼って、ポストまで行って、
だったら、メールでイイじゃないか、って。
ちなみに、手紙のやりとりをさせてもらっている保護者の方は、ゼロです。
保護者の方へ自宅住所を教えたことはないので当然なのですが、
でも、教えさせてもらったところで、手紙のやりとりなどしていたかは、わからないですね。
1人の子は、もう5年くらい続いています。
昔の手紙を読み返すと、ずいぶんと文字が上手になっていて驚きます。
いつまで続くのでしょうか。
手紙が届く限り、ボクは絵葉書を出し続けようと決めています。
「不登校」を“卒業”したら、
手紙も届かなくなるのかな、と思うことはあります。
先日も記事に書きましたが、それはそれで仕方がないことですからね。
その時はまた、「便りのないのは~」と思うことにします。
ずっと手紙のやりとりをしていたけれど、
前触れなく、手紙のとだえた子がいます。
その子が、その後どうしているのか、いまはなにをしているのか、
残念ながら、全くわかりません。
もしかしたら、ボクが何か傷つけることでもしてしまったかと、
気になったままです。
一昨年の大震災後、手紙が届かなくなった子もいます。
なんとかして、つながりを復活させられないかと、いまでも歯がゆい気持ちです。
個人的には、いつまでも、手紙のやりとりを続けられればイイなと勝手に思っています。
例によって、おじいさん、おばあさん、になっても。
だけど、いつかは終わるのだろうな、とも思っています。
その方が、本人にとっては、イイかもしれないなという気持ちもあります。
でも、年賀状くらい続くとイイなと、やっぱり思ったりもするのです。
ボクは「母ひとり子ひとり」の家庭で育ちました。
看護師だった母は、ほとんど家にいなかったこともあり、
親子の会話は「手紙」が多かった記憶があります。
母は手紙を書いて、机に置いて、仕事へ出かけます。
学校から帰ると、最初の会話が手紙だったり、
朝起きて、最初の会話が手紙だったり。
親子の会話もなく、
なんともかわいそうな子に見えるかもしれませんが、
ボクはそれが楽しみでした。
いまでも、実家へ帰ったときに、
ふと、置き手紙があったりします。
ボクの記憶にあるものと全く変わらない、その筆跡を眺めると、
なんだか温かい気持ちになります。
昨日、届いた手紙に、
「いつかウチへ遊びに来て」と書いてくれていました。
とても遠いところです。
地図の縮尺をよほど広げないと電車の駅も見当たらず、付近には道路1本あるくらいです。
だけど、いつか必ず行こうと思います。
手紙が、そんな気持ちにさせてくれました。
そのときは、絵葉書を手渡ししようかなと考えたりもしています。
こんな記事を最後まで読んで下さったみなさん、
ちょっと、ペンを手にとってみませんか。