書籍「不登校そうだんしつ」出版

あべが思うこと

理解

 

ボクは観覧車に乗れません。  

ちょうど今のような休日の遊園地で
みんなが楽しく乗っている観覧車ですが、ボクは乗れません。 

「なんで?」と聞かれても、
「安全だよ」「こわくないよ」「楽しいよ」と言われても、
乗れませんし、乗りません。  

「みんな乗っているよ」と言われても、
「子どもでも乗っているよ」と言われても、
「おかしい」「情けない」「ダメなやつだ」「頑張れ」と言われても、
乗れませんし、乗りません。  

いくら言われても、乗らないです。
無理なものは、無理なのです。  
あまり言われると、嫌な気持ちになります。    

もっと嫌になるのは
「それは『こうしょきょうふしょう』だね」
などと勝手に“診断”されることです。  
ちなみにボクは「こうしょきょうふしょう」ではありません。  

「慣れれば大丈夫」などと言われるのも困ります。
おそらく「慣れる」までの段階で、ずいぶんとつらいことになりそうですし
無理なことに対して「慣れさせる」という行為はリスクがあることもわかっています。

一度も乗ったことがないわけではありません。

子どもの頃は乗っていました。
「だったら大丈夫でしょ」などと言われるのも困ります。
子どもの頃は大丈夫でも、今は無理なのです。  

  けど、同じ遊園地のアトラクションでも
「おばけ屋敷」は問題ないです、大丈夫です、全然こわくありません。
  みんなが震えていても、子どもたちが泣いていても、
全然こわくありません。   みんなが「無理」と言っていても、ボクは大丈夫です。  

  「観覧車」という「ものさし」でみれば、ボクは「ダメ人間」でしょう。
しかし「おばけ屋敷」という「ものさし」なら、ボクは褒めてもらえるのかもしれません。  
観覧車だけの遊園地なら、ボクは全く面白くないでしょう。
観覧車だけでなく、おばけ屋敷や様々なアトラクションがあれば、ボクは楽しめることでしょう。 

ちなみに、
観覧車に乗れるのが偉いわけでも、おばけ屋敷に入れるのが偉いわけでもありませんよね。
そもそも比較するものでもありません。

  努力でどうにかなる「無理」と
努力ではどうにもならない「無理」があります。 

例えば「視力」。   ボクは両目とも1.0未満です。
1.5くらいの視力の人が見える世界を裸眼で見ることはできません。
  1.5くらいの視力の人に
「なんで見えないの」「情けない」「頑張れ」と言われても見えません。
「慣れれば見えてくる」なんてことも、ありません。

ボクに必要なのは、
励ましよりも、メガネでありコンタクトレンズです。

どんなに叱咤激励されても無理なものは無理。
だけどメガネをかけるだけで、頑張らなくても視力1.5の人と同じ世界を見ることはできるわけです。

「なんでだ、おかしい」「なんとかしてあげなきゃ、頑張れ」という前に
「そういうこともあるんだ」と思ってあげたいですね。

自分ができること、周りができていることなのに、
それができない人もいる、という現象は、それほど特別なことでもないと思っています。
逆もまた然り、ですしね。
誰にでも無理なことはあります、あなたにもあります。

それが特別視されたり、ダメと言われたり、するかしないかは
環境次第で変わりますし、ものさし次第で変わります。

親子関係も一緒です。
お子さんに対して
「そういうこともあるんだ」と、まずは思ってあげて下さい。
無理なことを頑張ろうとしすぎているかもしれません。

今は無理でも、
後になったら無理ではなくなることは多々あります。
しかし、いつまでも無理なことを頑張りすぎるのは、
視力が落ちているのにメガネも与えてもらえず「頑張れば見えるから」などと言われているようなもので、
いつまでも何も変わらないどころか、本人は落ち込むだけです。

「観覧車に乗るのと、学校へ行くのは違う」と言われるかもしれません、
「視力が落ちているのと、学校へ通えないことは違う」と言われるかもしれません。

ハッキリ書いておきますね、一緒です。
観覧車に乗れない人は乗れない、
だけど他のアトラクションは問題ない。
見えない人は見えないし、
だけどメガネがあれば問題ない。
学校へ行けないものは行けない、
だったら何が必要かを考えてあげましょう。

他のアトラクションにあたるもの、
メガネやコンタクトレンズにあたるもの、
それを見つけてあげるために、
まずは「そういうこともあるんだ」と思ってあげて下さい。

ちなみに、
あるアフリカの地域に住む人たちがボクらの基準で視力を測った場合、
平均が「7.0」や「8.0」という数値になるという話があります。
成人で「10.0」を超えるケースもあるようです。  

そういう人たちからすれば、
「1.5」でも「0.5」でも大差なく、どちらも「なんで見えないの」と思われるでしょう。
「1.5」の人が「0.5」を相手に「なんで見えないの、頑張れ」などと言っている光景は
ずいぶんとスケールが小さく感じられてしまうかもしれませんね。