ただ「苦手」というだけのこと
ひとりごとです。
「勉強が苦手」な子はいます。
また「運動が苦手」な子や、「歌うことが苦手」な子も。
だから、
「学校へ行くことが苦手」ということで、
イイんじゃないかと思うんです、不登校生については。
「苦手なんだ」という、ただそれだけのこと、
という見方をしてあげてもイイんじゃないかと思うんです。
「運動が苦手」な子は、体育の授業や運動会になると、
ちょっと気まずい思いをします。
「歌うことが苦手」な子は、カラオケに誘われたりしても、
なかなか乗り気になれなかったりします。
だけど、その場面だけのことですよね。
「運動が苦手」でも、
絵を描くことには生き生きと取り組める子はいたり、
「歌うことが苦手」でも、
おうちの手伝いでは立派な働きをしてくれたり、
「苦手」以外の場面では、
自分らしく過ごすことができたりします。
どうして「学校へ行くことが苦手」な子は、
年がら年中、嫌な思いをさせられなければ、ならないのでしょう。
ただ「苦手」というだけのことなのに。
「苦手」に対してどうするか、は、
その時々の自由だと思います。
「運動が苦手」だから、
たくさん走る練習などをしてみて克服しよう、というのでもイイですし、
逆に、
運動は苦手だけれど、そのぶん絵を上手に描けるようになろう、でもイイでしょう。
人それぞれ、その時々の自由です。
どうして「学校へ行くことが苦手」だと、
そんな自由すらなく、
あたかも、わるいことでもしたかのような扱いを受けるのでしょう。
いくら「得意」なことがあっても、
「不登校」というレッテルで、全てを覆い隠されてしまう。
誰にでもある「苦手」や「得意」の、
ただ「苦手」という一部分なだけなのに、
それが、人格の全てであるかのように見られてしまう。
そういう環境は残念ですよね。
本当は「得意」なことを持っているのに、
「苦手」ばかりを見られて、その話題ばかり、その視線ばかり、は、つらいです。
「運動が苦手」でも、上手に絵を描けばほめてもらえるのに、
「歌うことが苦手」でも、お手伝いをすれば喜んでもらえるのに、
「学校へ行くことが苦手」だと、笑顔すらもらうことができないのでしょうか。
「学校へ行くことが苦手」なことは認めましょう、
強がっても仕方がありません、事実は事実です。
だけど、誰にでも「苦手」はあるもの。
そして、そのぶん「得意」だって必ずあるはず。
「苦手」に挑むか、「得意」を伸ばすか、
そういう自由だって、誰にでもあるはず。
オトナだって「苦手」なことはありますよね。
「私は学校を休んだりしなかった」などと、
自分の「苦手ではない」ことと、相手の「苦手」を比べてはいけませんよね。
自分の「苦手なこと」と置き換えてみると、
少しだけ、気持ちを察することができるかもしれません。