水の中へ飛び込ませてバタバタさせていれば勝手に泳げるようになるのか
もちろん、これは例え話です。
いつの時代であっても、
また、どんな方法であっても、
泳げるようになる子はいるし、
泳げない子もいる、という前提ではありますが、
プールでも海でも川でも、
お子さんを水の中へ飛び込ませて放っておけば、
バタバタしながら勝手に泳げるようになるのでしょうか。
ボクは、
昔だったら、泳げるようになる子が多かったかもしれないけれど、
最近であれば、泳げるようになる子は少ないと思います。
昔の場合、
水中に放り込まれた子は、
バタバタともがきながら水面上の景色を見たときに、
そこへ、おぼろげながらも、
お父さん、お母さんの顔が、
また、おじいちゃん、おばあちゃん、兄弟姉妹、
そして、ご近所さんやお友達など、
そんな姿が水面越しに見えていたのではないでしょうか。
なので、
バタバタともがきながらも、
本当に苦しくなったら、水面上から誰かが手を差し伸べてくれる、と感じたり、
あるいは、
せめて水面上に手を伸ばせば、誰かがしっかりとつかまえてくれる、と無意識にも思えたのではないかという気がします。
だから、なんとかもがいてみる。
水面上に、なんとなく見えている人々の姿を信じてもがくことができる。
人々が見えているので、応援されているような気分になるかもしれないですし、
人々が見えていると、泳げたときにはほめてもらえるかもしれないと期待もしたりして、
そうやってもがいているうちに、なんだか泳げるようになったりする。
しかし、最近の場合は、
水中でバタバタともがきながら視線を上げてみても、
もしかしたら、
昔ほどの人影は見えることがないのかもしれません。
核家族化、共働き、少子化。
ただでさえ、水の中の姿を見てくれる人数は減っています。
なので、ボクたち大人が、
「自分たちが子どもの頃にされた」、というだけの接し方や関わり方をしていたのでは、
水中でもがく子どもの目には、なかなか人影をとらえることが難しいような気がします。
“人数”が減ったぶん、
意識して存在を示してあげないと、
誰かが手を差し伸べてくれる、とか、
頑張って手を伸ばせば誰かがつかまえてくれる、とか、
そんな風には思えないかもしれません。
そんな風に思えないと、
バタバタするのも意味がないと感じてしまい、あきらめてしまうかもしれません。
だから、泳げるようにもならないでしょう。
もしかしたら、
泳げなくたって別にいいや、水中の方がまだ楽だ、などと感じて、
バタバタとすら、しない子もいるかもしれません。
あるいは、
泳いで水から出たところで、誰もほめてはくれないだろう、なんて思う子も。
昔だったら、たくさんの人がほめてくれたに違いないのに。
しかし、
手を差し伸べてあげる、手をしっかりとつかまえてあげるのは、
ひとりでもいれば、なんとかなります。
「ここに、いるよ」と、
水中でもがく子に向かって、しっかりと存在を認識させてあげたいものです。
そして、
その役割は、やはり保護者の方であって欲しいです。
もちろん、ひとりより二人、三人、昔のように大勢と、
いればいるほどいいでしょう。
しかし、まずはひとりでも確実にいてくれれば、
お子さんも、バタバタともがく“甲斐”があるのではないでしょうか。
また、
実際にそこにいるかどうかよりも、
お子さん自身が「いると感じる」かどうかの方が大切です。
わかりづらい言い方になりますが、
実際にいなくても、「いる」と感じてくれればいいと思います。
たとえ姿は見えなくても、
頑張って手を伸ばしたときには駆けつけてくれる、と感じたり、
泳いで水から出た瞬間にはいなかったとしても、
後でその話をしたときに、とってもほめてもらえたり、
そうやって、「たしかに、いる」と感じさせてあげられたらいいのではないかと。
そうした意味では、
共働きだろうが、ひとりっこだろうが、あまり関係ないとも言えます。
ただし、
「昔とは違う」ということを、
ボクたち大人は強烈に意識しなければいけません。
なにも考えずに、自分がそうだったからというだけで接していたのでは、
もしかしたら、
水中にいるお子さんは、こちらの存在を認識できないかもしれません。
「ここに、いるよ」「たしかに、いるよ」と、
強く、強く、想いを届けるイメージで接する必要があるのではないかな、と。
核家族化なぶん、共働きなぶん、兄弟姉妹が少ないぶん、
ご近所やお友達との関わりが少ないぶん、
そのぶんを補って余りあるくらいの強い気持ちで、
「ここに、いるよ」と。
「だから、もがいてごらん、もがいていいんだよ、
いざとなったら、私の手があるから、あなたの手をしっかりとつかむから、
本当に苦しいときには、つかんだ手を決して離したりしないから」
そんな気持ちで、
バタバタさせてあげられたら、いいのかな、と。
それが、「見守る」ということだと思います。